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蓮の根は泥の中に 佛の願いは我等が苦悩の中に

 
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お念仏は あさましい我が身を 写す鏡

 
 
3月4月の掲示板
 
生きとし 生ける命は いかなる命であっても 平等である
 
この言葉はお釈迦様の言葉だと聞いています。
一切衆生悉有仏性というように、仏教は人間中心主義ではなくあらゆる生き物を平等に見る
のです。先月の仏教講演会でネパール人僧侶のソナムさんが、仏教の言葉は人間には人間の言葉で、地獄のものには地獄の言葉で、悪魔には悪魔の言葉で、あらゆる生き物に仏陀の言葉は通ずるんです。と事も無げに仰いました。
 そのあっけなさに「そうか、一切衆生というのは生きとし生けるものだから、その言葉の如くに仏陀は私たちを見ているんだと。」
私という人間の価値観では計り知れない平等の慈悲と智恵を以て仏陀はわれわれをみそなわしている。
その事実に気づくことが私たちの救いとなることでしょう。
しかし人間の私には容易に出来にくいことです。
 
相田みつをさんの詩に「ただ」という詩があります。
    
「 ただ 」
花は人間のようにかけひきがないからいい
ただ咲いて ただ散ってゆくからいい
ただになれない 人間のわたし
 
親鸞聖人のお念仏の教えは、はからいの心から離れがたい身、人間のわたしでありながら、
その痛みのところに、如来の救済意志、本願の働きを仰いでおられるのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
2月の掲示板
 
仏は苦悩する衆生を救う
 
 
 
 
 
仏は苦悩する衆生を救う
 
法然上人の道歌で有名な歌があります。
月影の至らぬ里は無けれども 眺むる人の心にぞのみ棲む
 
仏はあらゆる人を救いたいと念願しています。
しかしそれを眺める、つまりそれを心から求める人がいて、初めて救いのありがたさが実感されます。 自分の思いに満足している人には、仏の救いは無縁です。
 
苦悩するということは、嫌なことのように思われますが、苦悩する衆生の自覚が、初めて仏と通じ合えるのでしょう。
ピンチはチャンスといった人がいますが、人生のピンチには、そこに自分が変わるチャンスがあるのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 2017年 多福寺1月の掲示板
 
これからがこれまでを決める   藤代聡麿
 
 
 
この法語はS先生が、お寺を出る決意をしたときに、藤代先生がS先生に送られた年賀状の言葉だったそうです。
 
これまでの過去が今になっているというのならば、常識としてわかります。
それは、人間が過去の業に縛られて今を生きているということなのでしょう。
そうすると、自分の人生はどっちみちそう変わりようがないのだというあきらめとなっていきます。それは人生が行き詰まっていくことでしょう。
 
それに対してこの法語 「これからがこれまでを決める」というのは、これから頑張ればだれでも人生は変わるんだよというような、努力を推奨する言葉でもないと思います。
 
この場合の「これから」は、念仏の信心に目覚めさせられた事により、「これまで」の宿業の身(過去へのコンプレックス)から立ち上がらんとする意欲となることを表している言葉かと思います。今年の年賀状に私も多用させていただきました。
 
 
 
 
 
 
多福寺12月の掲示板
 
生きるんだよ
生きるんだよ
どんなにくるしくてもかなしくても
生きるんだよ
生きる命の中に
如来まします
 
 
 
木村無相さんという念仏者がおられました。
私はお会いしたことはありませんでしたが、本山の同朋会館の守衛をしておられたそうです。あなたほどの方がどうしてここの守衛をと人から言われても、此処にいれば、いつでも御法が聴けると仰っていたとか聴いています。
 私は、大谷大学の名誉教授 故大屋憲一先生から木村無相さんという方のことを
お聞きしました。念仏詩人と言っても良いようなその詩は、南無阿弥陀仏から始まり、南無阿弥陀仏に終わるような詩に私は聞こえます。
ある意味では、その詩には、南無阿弥陀仏をわかろうと計らうことが無益なことだ。
私には、そのようなはからいを止めよというような透徹した木村無相師の眼があるように思えます。今回あえて法語の解説は致しませんので、各人が味読して下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多福寺11月の掲示板

 

あかあかと日はつれなくも秋の風  松尾芭蕉

この句は亡き恩師、平野修先生から教えていただきました。
御著書でも紹介してあります。

我々は誰しも人生にあかあかとした、自らが認められるような世界を求めて歩んでいます。
しかしながら、何時の間にか人生も黄昏となると、秋の陽がつるべ落としのように、待ってくれと言う間もなく沈んでしまいます。
残ったのは秋の風という寂寥感だけ。

秋の風景描写ながら、人生の黄昏時の侘しさを現しています。
あかあかとした人生、それは学問やスポーツや芸能、ビジネス、それぞれに憧れるものがあります。
しかし、追い求め、獲得してきたはずのものが何時の間にか侘しくなってしまった。こんなはずでは無かったのにと。

我々が真面目に考えて歩んできた結果が図らずもこうなったのです。
自分の力で何とか自分の人生を切り開こうとしてきた。
その全体が虚しく感ずる。
そこに大きな転換が待たれているのではないでしようか?

他力は仏様の願いです。
苦悩するからこそ願われている、その我が身に気づかされたならば、そこに今迄求めて得ることの出来なかったあかあかとした人生の満足が与えられているということを平野修先生から教えていただきました。




多福寺10月の掲示板


他人は変えようとするが、自分は一向に変わろうとしない。

 

まさにこの言葉は他人のことではなく、私自身のことです。
 
自分と他人は産まれも育ちも考えも全て違います。それなのに自分の考えを正しいと思い込むことでいつも他人を変えようとします。
 
それは侵略・支配に他なりません。
 
それはたとえ親しいはずの家族、夫婦、などの人間関係においても一緒です。
むしろそういう関係に於いての争いが近頃の悲惨な事件で特に目につきます。
 
何の根拠もないのに、自らの価値観を是・善しとする心は必ず他の考えを非・悪とします。
そういう自分が争いや諍いの根本原因でありながら、そんな愚かな自分が原因であると言う事に全く気づいていない。我々は二重に愚かな存在です。
 
念仏し聞法(もんぽう)するという事柄は、知識を増やして自分を他者から防衛するものでは勿論有りません。
また聞く事で自分の心を反省し、理想的な美しい心になると言うことでもありません。
 
念仏とは念ずる仏。
阿弥陀仏が我々を念ずる働きにより、ただただ自己自身の愚かな事実に目覚めしめされる。
 
愚者の自覚。それは一人一人違う人間である事を変えずにお互いが愚者であることを確かめ合える世界。
 
そういう意味では、人間の愛憎の想いを捨て去ることの出来る大海原のような世界、それが阿弥陀の浄土の徳でありましょう。
 




多福寺9月の掲示板

仏さまから事実(ありのまま)を生きる 智慧と勇気をいただく

数年前、「アナと雪の女王」というデイズニーのアニメ映画が大ヒットし、その主題歌が町中に流れていました。その曲のさびの部分は「ありのままの~」という日本語の歌詞で流行っていました。

 改めて見てみると、一番の歌詞は「ありのままの姿みせるのよ~ ありのままの自分見せるのよ~ありのままのじぶんになるの~何も怖くない風よ吹け~」でした。
二番以降もありのままの自分、後悔しない自分と言うような事が高らかに歌われていました。
 
 いつか、テレビのインタビユアーが「デイズニーランドの魅力は何ですか?」とよく通う女学生に尋ねたところ、「ここに居るときだけが現実の辛さを忘れられる。」と、その女学生がコメントしていたのを聞き、私は正直そのコメントに不思議な気持ちを抱きました。
 
  いつの時代でも、誰もが自分の人生だから自分らしく生きたいと願います。
しかしいつの時代も、現実には全く自分を殺して社会に合わせることで、自分を偽って生きていかざるを得ない。
 そんな世の中で自分らしさを満喫できる世界があるとしたら、それは若者にとっては、身近にあるアニメやゲーム、テーマパークなどの仮想空間になっているのかも知れません。
 
仏教では自体満足と言う事も言いますし、自分が自分自身であることに満足する。
ちょっと見ると、自分らしく生きるという「アナ雪」のこの歌詞の言っていることは、仏教の教えや人間の切に願う事柄と重なる良い歌詞でしょう。
 
それならば問題は、本当の意味で自分らしく生きるという事を何が阻害しているのかということでしょう。
 
まず自分らしくというときに確かめねばならないことは、自分らしく生きると言うことが、自分の好き嫌いを我慢することなく、自分の思うように生きたい、ということだけであれば、それはある意味小児的な衝動とあまり変わりません。
 
誰しも自分の思いを曲げずに生きられたらと思っています。しかしそういうことが通らないのがこの世の中です。だからお互いの主張を平等に調整するように法律が作られています。
 
しかし人間には自分の欲求を中々我慢できずに、つい直接行動に出ればそれが犯罪になることもありますし、現実逃避のために薬物に依存したり、仮想空間に一時の慰めを求めたりします。
 
 それらに共通するのは、欲求に対して、一時の慰めや癒しが現実を生きる力にならないと言うことでしょう。
昔「嫌いなものを遠ざけると 仏からも遠ざかる。」という法語を掲げていたとき、その意味を尋ねにきた若者がおりました。その時その若者は「上司とうまくいっていない。だけどこの法語を見て自分の考えが間違いだろうかと思って尋ねた。」と言いました。
 
今ある世界に対して、批判的に係わるということも受容するということも含めて、あたえられた世界の事実(ありのまま)を生きる勇気と知恵。それが本当は私達が一番欲していることではないでしょうか。
 
 
 
 
 







多福寺8月の掲示板
 
 
人間が人間を救う それは思いあがり
 
人間は読んで字の如く人・間 
 
間すなわち関係を生きる存在です。
 
ですから本来自分だけ楽しければいいという事では満足できない。
 
周りとの関係がうまくいかないと満足できない存在なのでしょう。
 
 
そういう人生そのものの課題を持ちながら、自分の意志と力で人生に対応していこうとします。それを自力と仮に申しておきましょう。
 
 
しかしこの自力が問題です。自分の力というときの自分。
 
自分、自分とわれわれが言うときには、言えば言うほど、自分は他人と違って格別であり、優れた自分でなければ納得しないという我執・我欲をはなれることが出来ません。
 
ヒューマニズムという考えに立ち、なんとか狭い自我意識を破り、人類全体で成し遂げようという努力もあります。
 
 しかしながら我執我欲を抱えた私達が、他人との関係を自分で成り立たせようと、
すなわち人間が人間を自分の心と力で救おうとしてもそれは不可能であります。
 
こう言いましても、私はボランテイア活動等を否定したりするものではありません。
私が言いたいのは、人間を救けようとするときは、「自分が」という立場を離れて行う、無私の行為でなければ相手を救うことは出来ないということを言いたいわけです。
 
ですから、人間が人間の心で救うという考え、それは不可能であり、むしろそれは人間のおもいあがりである。
 
こう一度断言するのが真実の宗教の立場でしょう。
 
 
かといいましても真実の宗教というのは、人間の努力を唯単に否定し、何も考えずに超越的存在や神仏に任せなさいと言う事ではありません。
 
 
 人間の善悪の思いの限界を知らせると言うことを通して、人間の立場そのものの転換がそこに願われるのでしょう。
 
 他力というのは、人間の自力の限界において自覚される仏の慈悲と智慧に触れることであります。
 
 
そのことを通して真に人間関係の成就に邁進する努力の主体が我々に生まれてきます。
 
 
 
何故ならばそれは真に自他の救いを願う阿弥陀仏の本願が私どもの根拠となるからであります。
 
 
 
 
 


多福寺7月の 掲示板

 

 
「死に安んじて 生を楽しむ」 (金子大栄)
 
我々は気がついたら、この世に生を受け生きていました。
ふと思えば、わたしの人生どこから来て何処へ行くやらもわからず、それなのに
前向きなつもりで「とりあえず楽しければいいんじゃない。」みたいな調子で生きてきました。
たとえ真面目に生きようと心がけてきたとしても、自分の人生が、子供の時に夢見てきたような人生ではなく、だんだん成りたくないものになってきている。
昭和の人気作家吉川英治さんは、そのような私達の有り様を「人生列車」という短文でいいあてています。
それは人生のゴールが死という壁で終わるような生き方を問題にしています。
 
自分の人生になんら意味が見いだせなければ、それはやりきれないものですから、
そうすると他人より長く、たくさんの享楽を勝ち取る事と、一刻でも死から逃れたいというのが我々の生きる価値観となってしまいます。
 
仏教は「生死(煩悩に束縛された生き方)を出る」教えであります。
我々の幸福追求は、すべて死んだら終わりという価値観の前では味気なくなる
ものでしかありません。そういう在り方を出る。煩悩を離れたところが我々の人生の満たされるところであると教えます。
 それを「往生浄土」。  人間に生まれたのは浄土に生まれるためだと言い伝えてきました。
南無阿弥陀仏とお念仏するところには、我々を救済せずにはおかないという阿弥陀仏の大慈悲心が働いております。それに気づく、信ずる心が生まれたとき、死ぬことは間違いないけれども、命終えて浄土に生まれられると言う事が、現在の私達をして死の怖れから解放します。それが「死に安んじて」と言うことでしょう。
 
また阿弥陀仏の願い、他力の信心を頂いた人には、自分の欲望充足という生き方が変わらならなくても、その有り様を恥ずかしいと知ることで、微力ながらも他の人と共に生きていきたいという生活が始まります。それを「生を楽しむ」と仰っているのではないでしょうか?
 真宗大谷派の大学者 金子大栄先生の真意を推し量ることは不遜なことでしょうが、私としましては上記の様な意味合いを感じさせて頂いたことです。
(文責 住職)
 

多福寺6月の掲示板
「であいとは おたがいが かわること」

 
今月の法語の元は、九州大谷短期大学の元教授、故平野 修先生の言葉からの引用です。元の言葉は
「出会いとは お互いが変わること 素通りしたのでは変わらない
 するといつも不満気な 自分が残るだけ」
(1991年度11月「九州大谷」 今月の言葉)
 
 出会いと言う言葉には憧れと魅力があります。人生は出会いであるという言葉もありますが、
それは異性や他者との出会いであったり、自然との出会い、そして自分自身、人生との出会いであったりと様々でしょう。
 しかしそれらの出会いが、本当の出会いになっているのかどうか?
出会いと言いながらその実は素通りになっているのが我々の日常ではないでしょうか。
そのくせに自分のことを誰もわかってくれないとか、自分はいてもいなくても良い存在だとか、挙げ句の果てには自分や社会の人を呪うような生き方になってしまいます。
 
もし出会いが本当の出会いであるという唯一の証拠があるとすれば、それは最初にあげた部分「であいとは おたがいが かわること」ということではないでしょうか。
 ある教育機関でこういう会話があったそうです。
ある男子学生が、学校の先生に「私は彼女と別れました。」とそう言ったときに、
先生はすかさず「君は彼女と別れたと言ったが、そもそも君らは出会っていたのかね?」と仰ったそうです。
 人と出会うと言う事は、その人の存在により自分自身が質的に変わる体験をする事ではないでしょうか?そうでなければ異性間の恋愛感情といっても、亀井勝一郎氏の名言「恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる。」に過ぎないのではないでしょうか。
 
自分と気が合うということをもって相手との相性を云々しがちですが、仏法の働きによる出会いとは、自分の好き嫌いを超えて自分自身に出会い、他者とも出会う。
 もっと言うならば自分の嫌いな人からかえって自分の狭さを知らされることもある。
それは自分の思いという自己過信が破れ、ありのままの自分に頷き見方が変わる唯一の機会ではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
多福寺5月の掲示板
「ありがとう ごめんなさい これを忘れた人は 若くても ぼけている」
 

 

「わらじ医者」と言われた地域医療の先駆者で、京都の早川一光先生がこう仰っています。

『痴呆症、痴呆症というけれど、その多くはただの健忘症だ。物忘れだ。健忘症というのは、歳をとつていけば皆なることであり、そしてまた、健忘症になることで助かっているんだ。年を取っても昔のことをずーつと全部覚えていたらこれはたまらない。(中略)痴呆症というのは、要するに自分のことしか考えられなくなった在り方なんだ。自分中心、自分のことしか考えられない。

痴呆症の人も仕事をするのですが、「はたらく」というのは、ハタの人をラクにさせてあげることです。

私が掃除をすることで周りの人が掃除をしないで済む、楽におれると言うことで働くということになる。

痴呆症になりますと、自分の都合しか考えませんから、皆が寝ている夜の夜中にバタバタと掃除を始めたり、ガス風呂の火をつけて風呂に入ったりする。これらは、働くどころか、はた迷惑ということになっていく。

いちばんもとは、要するに「ありがとう」「ごめんなさい」と言う言葉がなくなる。

人間としてボケているということは、その人の生活の中に「ありがとう」という心と「ごめんなさい」と言う心がなくなっている。全部自分の都合でしかないし、自分の思いでしかない。それを人間としてボケているというんだと。だから老人性痴呆症というけれども、歳をいったから痴呆症になるんじゃない。どんなに若くて元気でも「ありがとう」と「ごめんなさい」のない生活は、人間としてぼけているんだ。』
 
と、こういうことを仰いました。
 
 
多福寺4月の法語掲示板
「すべての人が幸福になって欲しい それが仏の大慈悲心」
仏さまは肉眼で見えるものではありません。
仏さまとは私達の心に働きかける道理そのものです。それは私達の心の闇を破る真実の智慧であり、私達を執着から解き放ち救うからです。
その救われた喜びは仏さまが、すべての人が幸福になって欲しいと願われた大いなる愛情(慈悲心)によります。
 
「衆生病む故に我また病む」
仏さまの愛情はすべての衆生(いきもの)に平等に注がれますが、特に心を病む者に強く注がれるのです。
 
 
 
多福寺3月の法語掲示板  「であいは生きる力」
 

 

今月の法語は、東本願寺・同朋会館「日めくり法語」からの言葉です。

私はこの言葉が、本山へ奉仕団として来た子供の言葉だと知り、正直驚きました。

 

初めての本山。子供達は大きなお寺だなあと感心しつつも、二泊三日の生活を送る中、身体全体で受け止めた体験を「であいは生きる力」という言葉で発したのでしょう。

改めて子供の感性は素晴らしいなあと思わされました。

 

一方、「であい」と言う言葉は、様々な意味で使われます。

それは自分と他人との出会いであったり、人生を決定づける事柄であったり、また自分自身についての深いうなずきであったり、いずれにせよ人生にとって大事な事柄として使われます。

 

しかしここで一つ問題があります。

人間の眼はあらゆる物を見れますが、自分の眼は直接自分自身を見ることだけは出来ません。

それと同じように人間の認識は常に自分以外の外物を知ることは出来ますが、認識をしている自分自身がどうなっているのかと言う事だけは理解できないのです。

 

昔、高光大船という先生が「本当に教えを聞くと言うことは腹「に」落ちるでは駄目なんだ。腹「が」落ちるでないと本当ではないんだ。」と言う意味合いのことをおっしゃったそうです。

自分の価値観に合うものに出会ったときに、我々は自分の考えが正当性を持っていると思い込みます。それが「腹に落ちる」でありましょう。

しかし自分の考えは決して間違いないものとして疑わなかったその価値観が破れたと言う事実が「腹が落ちる」と言うことでしょう。

 

腹が落ちるという事は、そこに自分の在り方を照らし出す真実の働きー南無阿弥陀仏―に出会ったということであります。

「であいは生きる力」

この言葉には自分自身の尊さに目覚めた事実があるように思われてなりません。       

                              

 
多福寺2月の法語掲示板
「 自分の見方を  絶対(たしかなこと)だと  おもわんで  いいのですよ 」
 
 
 人間の煩悩(ぼんのう)とは、穴の空いたホースから四方に飛び出し漏れる水のようなものです。
次々と勢いよく飛び出してくる水を止めようと、空いた穴を一生懸命塞いで回ったとしても、きりがありません。そのときに一番有効なのは水道の元栓を閉める事です。
 
 縁によって次々とわき出る煩悩を一々止めることは出来ません。
ですから煩悩の大元を押さえるのです。
煩悩の大元にあるのは無明(むみょう)という在り方です。無明と言う言葉を文字のイメージで想像すると真っ暗闇で何も見えないという風に考えがちですが、実は無明と言うのは、-私はわかっている。私は間違いない- という心、自信過剰・慢心こそが無明の正体なのです。
 
 つまり煩悩に振り回されているのに、その状態に自分自身が全く無自覚ということです。
皮肉なことに自分は絶対間違っていないと、自信を持って主張しているときが仏教では一番危ない、無明の状態であります。
 
自分が正しいという自分の了見から離れることこそが、心の救いとなります。
それは無明(むみょう)を明(みょう)にする。無自覚だったことを自覚することです。
そうすることで心全体が煩悩に支配され、悩まされている状態から私の心が解放されます。
 
その結果、煩わしく思えた煩悩が無くならなくても大丈夫、かえって大事なことを教えられたという心の落ち着きが生まれます。
生死流転(しょうじるてん)という悪循環から往生浄土(おうじょうじょうど)へという、善循環ともいうべき信心の眼がそこに開かれます。
そういう心の方向転換も自分の力ではなく、南無阿弥陀仏という阿弥陀様の救済意志である本願の力に依るものなのです。